プロフィール

悩み解決は「私とクライアント様の相性次第」

初めまして。

カウンセラーの國頭 夜桜(くにとう やざく)と申します。

 

私とあなたの相性は…?

心理カウンセリングを受けて悩みが解決するかどうかには、あるポイントがあります。

 

大切なポイントとは?
クライアントであるあなたと、心理カウンセラーである私との「相性が非常に重要」

 

そのため、

  • 私がどのように悩み
  • どうやってその悩みを克服して
  • どうしてカウンセラーになったのか
  • どんなカウンセラーでありたいと思っているか

私のプロフィールをご紹介したいと思います。

 

長文になりますが、最後までお付き合い頂けると嬉しいです。

 

【ご相談内容を大公開!】虐待・パワハラ・DV・恋愛依存・借金問題、他

私は、カウンセラーになる前は、長年法律の世界で生きてきました。

 

そのため、次のようなご相談に多くのってきたのです。

 

例えば…

  • 配偶者の浮気が発覚し、自分にも気持ちがないから離婚をしたいけれど、子供の事があるから迷っている
  • 結婚相手や恋人から暴力や言葉のDVやモラハラをうけているのだけれど、経済力がなく逃げ場もなくどうしたら良いかわからない
  • 自分もしくは身内が多重債務になってしまい、お金の心配が頭から離れない
  • 子供が学校でいじめにあって不登校になってしまい、途方に暮れている
  • 恋愛相手が既婚者で、不倫はいけないことだと分かりつつも、別れることができない
  • 恋人の事ばかり考え、四六時中連絡をしたりして、恋愛依存になっているがやめられない
  • 40歳近くになっても、母親と毎晩一緒にお風呂に入り、その日の報告や恋バナなどをしていて、友人や恋人といる時よりも気軽でいいのだけれど、これはもしかして共依存
  • 毒親から子供の頃虐待をうけた記憶が忘れられず、今も苦しい
  • アダルトチルドレンだったため、その連鎖から、自分も子供に虐待をしてしまい、やめたいけれどやめられない

など…

 

私のカウンセラースタイル…「唯一無二の道先案内人」「一緒に戦うカウンセリング」

私は、誰にも相談する相手がいない女性達から、ご相談されることが、カウンセラーになる前から多かったのです。

 

私はそのような方が来られた時には

  1. まずは相手の話をじっくりと聞いて
  2. 相手が混乱して整理がつかないことは一緒のペースで考え
  3. 自分のしたいことを見つけた後、助言を求められたら
  4. 初めてその希望をかなえるためにはどのような手段が考えられるかを助言し
  5. 必要に応じて信頼できる専門家を紹介する

というスタイルで、ご相談にのってきました。

 

これは、心理カウンセラーになった今も基本的スタイルとして変わりません。

 

私が心理カウンセラーへの道を選んだのは、私の生い立ちと、そこからくる悩みを克服したことに、大きく影響を受けていると思っています。

 

そこで、私の生い立ちなどを、これからご紹介したいと思います。

 

毒親の「激しい暴力」「食事抜き等ネグレクト」による虐待

幼少期…暴力による虐待

私の記憶をたどってみると、親からの暴力が最初の記憶になります。

当時は幼く自覚はなかったですが、私は親からの虐待をうけて育ちました

 

いつもの暴力

最も記憶に残っている暴力は、洋裁を習っていた母が、洋裁で使う長い竹の物差しで繰り返し私を叩くことです。

 

私がどこに逃げても隠れても、どこまでも追いかけてきて、繰り返し、繰り返し、同じ場所を叩くのです。

竹の物差しは割け、叩かれた所から血が噴き出るのは、日常茶飯事でした。

 

印象的な暴力

印象的な出来事は、父に壁に投げつけられて、首が腫れて動かなくなってしまった時の事です。

 

親は放置でしたが、偶然訪ねてきた祖母が病院に連れて行ってくれました。

早く亡くなった祖母は、唯一私に愛情を注いでくれた存在でした。

 

10代…ネグレクトと団体行動に馴染めずにいた日々

私の成長につれ、虐待の内容が暴力から変化していきました。

  • 家に入れない
  • 家に入れても玄関でのみ生活させる
  • 食事を与えない

等の、いわゆるネグレクトへと変わっていったのです。

 

冬空の庭で夜を過ごす

幼少期は、一晩中庭の隅で膝を抱えて、夜が明けて親の気分が変わり玄関をあけてくれるのを、ただじっと待っているだけでした。

 

空腹と特に冬の寒さは、とても孤独で辛く哀しく、今でも忘れることができません。

 

当時妹から「なんでお姉ちゃんだけ叩かれたり家を出されたりするの?」と尋ねられ、返答に困った記憶があります。

 

夜の街を彷徨い歩くようになる

中学に入ると、私の生活は荒れ夜の街をふらつくようになりました。

 

親が私のカバンの中に洋服と少しのお金をいれて、嫌がる私を無理やり外に放りだすこともあったのです。

 

今のようにネットカフェなどはなく、あてもなく、人のいる場所を歩き回るしかなかったのです。

 

毒親が虐待する理由とは?

私は成長に伴い、親からの虐待に耐えられなくなり、何故そんなことをするの?「疑問」を感じるようなりました。

 

そこで親に対して、理由を尋ねたことがあります。

小学校の卒業式の日でした。

 

それに対する親の回答は、次のような内容だったのです。

 

親子関係は契約関係

毒親の説明は、親子関係とは「契約関係」

  • よく子供は親を選べないというけれど、親も子供を選べないのは同じで、偶然お前が産まれてきただけのこと
  • 子供が親に何かして欲しいと望むのであれば、親が希望する子供としての義務を果たして初めて親に何かを望む権利を得るのだ
  • 子供がその義務を果たさなければ、親は親としての義務を果たす義理はない

というものでした。

 

親子は赤の他人以上に遠い存在

私はその「契約関係」という言葉を聞いて、とても混乱し、同時に言葉にできない哀しみが襲ってきました。

 

親は子供に無償の愛情を注いでくれると、虐待を受けていても心のどこかで信じていたのです。

 

でも、説明を聞き、親に対して抱いていた期待を捨て親を愛さなくてはならないの?、という疑問も捨てました。

 

以来心理療法を学ぶまで、私にとって、親子は赤の他人以上に遠い存在となったのです。

 

当時の私の「毒親の虐待」に対しての感情とは?

感情が出てくる歳になっても、私は何も感じませんでした

 

正確に言えば、何かを感じてしまうと、心のキャパシティを超えてしまうので、自分の心を守るため、無意識に何も感じないようにしていたのだと思います。

 

団体行動に馴染めない日々

家庭に居場所がなかった私は、学校にも違和感を感じていました。

みんなと同じことをしなければならない、という団体行動に息苦しさを感じていたのです。

 

たびたび先生の目を盗んで、幼稚園や小学校を脱走していました。

 

自由が私にとって何よりも大切で、誰かに強制されることが、苦痛でたまらなかったのです。

 

感情が爆発し荒れた生活から夜の街での決意とは?

夜の街での出会い

家庭でも学校でも居場所のなかった私は、感情のぶつけ場所がなく荒れた生活を送るようになりました。

そこでできた知り合いが、とあるスナックに勤めていたのです。

 

私はそこで雑用をする代わりに、賄いと寝る場所を与えてもらえることになりました。

 

それまで毎日、考えていたこととは

今夜はどこで寝よう、どうやって空腹を満たそう

そればかりでした。

 

そのため13歳の私は、やっと居場所を見つけて安心したのを覚えています。

 

一人の女性との出会い

そこで、特に私を可愛がってくれる20代後半位の女性がいました。

 

彼女は何かと面倒を見てくれ、私も初めて自分を受け入れてくれることがとても嬉しく懐いていたのです。

 

出会った女性とクズのような男

彼女は、

  • 彼女からお金を巻き上げ
  • 気に入らないことがあると暴力をふるい
  • 浮気ばかりしている

子供の私が見てもクズのような男と付き合っていました。

 

私は何度も彼女に「あんなやつとは別れた方がいい」と言いました。

 

でも彼女は淋しそうに笑うだけで、その男がお店に来るたびに有り金全部を渡してしまうのです。

それを見ていて、本当に腹立たしかったのを覚えています。

 

帰ってこないその男のために作った料理が余るから、と私を度々自宅に連れて帰ってくれました。

 

温かい手料理を食べさせてくれ、お弁当をもたせてくれたりと、私の知らない家庭の味を教えてくれたのも、彼女でした。

 

【彼女の愛情に満ちた言動】温かさが心に染み入る日々

そんな彼女は、ことあるごとに、私に言って聞かせました。

彼女の口癖とは
自分は頭が良くなかったからこんな仕事しかできなかったよ。でも、あんたは賢いのだから、きちんと学校に行って、いい大学、大きな企業に就職して、幸せになりなよ?

 

 

一刻も早く独立するために働いて、親から解放され自由になりたかった私は、納得できませんでした。

彼女のその口癖に、私へ真の思いやりが込められていたと気が付いたのは、大人になってからのことでした。

 

私が問題を起こすと親の代わりに迎えに来てくれて、こっぴどく叱られたりもしたのです

でも「愛情からくる叱責」はこんなにも「暖かく心に染み入る」ものだと、叱られているのに嬉しかったことを覚えています。

 

彼女との突然の別れと決意

ある日、お店にいったら彼女の姿が見えませんでした。

周囲に聞いたら、男の借金のカタに地方の風俗に連れていかれた、というのです。

 

私はお店のオーナーに「何とかして助けて欲しい」と必死に頼みました。

でもオーナーは、全く取り合ってくれませんでした。

 

それでも引き下がらない私に対し、

「それなら自分の力で救えばいい、何もできないガキがガタガタいっているんじゃないよ」

と言うのです。

 

私は「自分の無力さ」を、心の底から悔しく思いました。

そして、二度とこんな思いはしないようになってやる!、そう決意したのでした。

 

一冊の本が決めた私の「将来への道筋」

親から一刻も早く独立して見返すことや、彼女を救えなかった後悔から

どうやったら成功して力を手にできるか

そればかりを考えるようになりました。

 

そんな時に出会った一冊の本が、私のそれ以後の人生を方向付ける、大きなきっかけとなったのです。

 

その本で知った、

  • 日本が第二次世界大戦で行ったこと、されたこと
  • 復興するためにアメリカの力が強く働き現在にもそれが続いていること
  • 憲法の制定など戦争に勝った国々の良い所をつぎはぎしているため一貫性のないこと
  • 日本国内でも色んな差別が存在すること

などにとても興味をもち、関連する書物を読み漁りました。

 

それらがきっかけで、法律の世界で生きることを決意することになったのです。

 

「天国と地獄」を往来する「イビツな恋愛」への依存

私は「ゆがんだ愛情」しかもてない?

親子に愛情は存在しないと分かってからは、自分のことを愛してくれて、自分が愛すべき人は、自分で探せばいいのだ、と思うようになりました。

 

そして13歳で最初の恋愛を経験してから、恋人がいない時期はない位、数多くの恋愛を重ねるようになったのです。

 

当時の私の価値観は

愛情は最もウェイトを占め

恋愛をしていなければ生きている意味はない

と本気で思っていました。

 

ただ、その恋愛や愛情は、今思うと「相手への依存」といえるものでした。

そのため、本当に自分が愛されているのか、相手の愛情を試す行動も多々あったのです。

 

 

本気で好きになった人からは
あなたは親に愛されなかったから、本気で健全に他人を愛することはできないんだね

 

そう度々言われたのです。

最初はとてもショックだった半面、そうなのかもしれない、と納得してしまう自分がいました。

 

次々に相手が変わり、20歳を過ぎる頃には、もう自分が求める愛情を探すことに疲れ果てていました。

 

激しい恋愛の終わりと恋愛感情の欠如

そんな風に悟ったつもりでいたのに、決して恋愛してはいけない相手と、激しく抗ったにもかかわらず、恋に落ちてしまいました。

 

その恋は、文字通り、天国と地獄を一日に何往復もするような激しく哀しい恋でした。

そしてその恋が終わる時、その人は、私から人を純粋に愛するという心を奪い去って消えたのです。

 

それ以降心理療法を学ぶまで、別れて三日もしないうちに相手の名前も顔も忘れる程、いびつな恋愛しか出来なくなってしまったのでした。

 

法律事務所・企業法務勤め:休みなし一日20時間労働、パワハラ等の過酷な日々

法律事務所時代

大学法学部を卒業後、子供の頃から決めていた法律の世界で生きるために、とある法律事務所に就職しました。

私は就職先の代表弁護士のパラリーガル(単なる秘書や事務職ではなく、法律事務を行う仕事)として勤務することになったのです。

 

パワハラと女性軽視・ストレスの日々

給与は四大卒ではあり得ない程、激安の金額からのスタートでした。

それに加えて、代表弁護士の性格はかなり偏っていたのです。

 

ボスの口癖…その1
僕の頭の神経と君(私)の頭の神経を常につなげておけ

 

例えば「今日のランチは何にしますか?」などと聞いたら、「お前の頭は何のためについているんだ!」と怒号が飛んでくるのです。

 

ボスの口癖…その2
能力の120%分の成果を出して初めて給料分の働きをしたと思え

私は、就職して二年目にして「事務局のトップ」になりました。

その重圧は血尿がでるほど…

 

当時の時代背景と現在の違い

当時は「パワハラ」「セクハラ」「働き方改革」などという概念は全くありませんでした。

TVでも「24時間働けますか?」とCMで流れる時代だったのです。

 

有休もなく、体調を崩しても休むことは許されませんでした。

とにかく一人前になるまではと、自分の心身を顧みることなく、ひたすら頑張ったのです。

 

毎晩のように夜中3時過ぎまで連れ歩かれ、ボスの愚痴も聞いていました。

今考えると、カウンセラーの「傾聴」みたいなもの、だったのかもしれません。

 

初めての大病

そんな環境下だったため、ストレスから胃潰瘍や十二指腸潰瘍を患っていました。

更に腹膜炎で8時間にわたる手術し、腹部を20針以上縫う羽目になりました。

 

手術をしても出社しろと言う上司

手術の結果と今後をボスに電話したときのことです。

 

ボスが電話越しで怒鳴って言ったことは、

「身体は動かなくても頭だけ動けばいい」

「さらしでも巻いて、杖をついて出社しろ」

でした。

 

私は、誰のせいでこんなことになっているんだ!と、体中から悔しさと怒りがこみ上げてきました。

 

でも、ボスが黒を白といったら白になる世界だったのです。

私は言われた通り、さらしを巻いて杖を突いて出社するしかありませんでした。

 

転機の訪れ…企業法務への転身

事の顛末を友人に話した所、「企業法務としてうちにこい」と誘ってくれたのです。

 

確かに私はその事務所で高い評価を得て、入社当時は月給手取り15万円以下だったのが、二十代半ばには年俸700万円程度まであがり、同期でトップクラスの給与をもらうまでになっていました。

 

ですが、大企業で自分は使い物になるのだろうか、という不安がよぎり始めていた時期でもあったのです。

そこで、初めて企業法務の世界に飛び込むことにしました。

 

やっとはたした目標への到達!

成功への階段をステップアップ

企業法務になってからは、数年一つの企業に所属し学べることを学んだら、よりやりがいのある仕事、より高い年俸を出してくれる会社に移ることを繰り返しました。

 

成功への執着どんどんエスカレートしていくのを、私自身自覚していましたが、それで構わないと思っていました。

そして、順調に目標への階段を上がっていったのです。

 

所属する企業が行っているビジネスによって、必要となる知識が異なってきます。

そのため、仕事と両立しながら必要な勉強もして、行政書士のような起業可能な国家資格を含めて、いくつも資格を取得しました。

 

ですが、独立起業しようと考えたことはありませんでした。

「起業家マインド」を持っていなかったからかもしれません。

 

目標を達成するための努力

30代半ばを過ぎた頃、より高い金額が得られる可能性がある、外資系企業に勤めるチャンスを掴むことになりました。

 

言語、文化、法律、働き方などの違いに戸惑いながら、一日20時間働く日々が始まったのです。

 

激務の合間に、

  • 個人情報に関する資格
  • 機密情報の取り扱いに関する資格
  • 知的財産に関する資格

の勉強なども必死に取得し、確実に結果を残していきました。

 

ここでもパワハラ…突発性難聴は「気のせい」

激務と、何億という取引を一人で交渉しジャッジしなくてはならないという過度なストレスから、突発性難聴になりました。

 

上司に報告した時
「トツナン?気のせいよ」

の一言のみでした。

 

社内には同じ病気の人が多数いて、耳が聞こえなくなるリスクのある病気ですらも、日常業務をこなす方が重要でした。

病気を気にも留める余裕すらなかったのです。

 

とうとう手に入れた成功の証

入社して三年近くが経過した頃には、

  • 六本木の高層ビル32階のオフィスから、神宮球場であげられた花火が眼下で広がるのを眺め
  • 会員制の料亭で一人5万円は軽くする食事をするようになり
  • 年俸は子供の頃に決めた、40歳までに1500万円に手が届くところまで到達

まで到達していました。

 

やっとここまで来た!という気持ちと裏腹に、

まだこれでは終わらない

という気持ちが即座に沸いてくるのです。

 

終わりのないレールの上を、ぐるぐると回っていたのかもしれません。

 

うつ病になり絶頂からどん底へ

ところが、そんなある日、頭の中で糸が切れる音がしたのです。

文字通り、ぷつっと。

 

真夏なのにダウンを着ても寒気が止まらず、まっすぐ歩くこともできず、自分の中で何か異常なことが起こっていること、そしてそれは肉体面ではないことを、私は本能で感じました。

 

そして心療内科にいったところ、重度のうつ病だと診断され、すぐに入院が必要だと医師から告げられたのです。

 

全てが泡と消えた瞬間

上司に報告した後、休職などの紆余曲折を経て、結局退職することになりました。

 

それはつまり、それまでガムシャラに積み上げてきたキャリア全てがガラガラと音を立てて崩れ去り、私には何も残らないことを意味しました。

 

呆然とし、何も考えられなくなり、そして成功への道を閉ざされた悔しさと悲しみは、言葉に現わせないほどでした。

私は、その日から絶望の中で生きることになります。

 

暗闇を彷徨った10年間

最初の半年

うつ病になって最初の半年間は、全く動くことができませんでした。

 

ひたすら真っ暗闇の部屋の片隅で丸まって、それまでの寝不足をとりもどすかのように、毎日眠り続ける日々を過ごしたのです。

 

そうして半年経っても、一向に症状が変わらなかったため、病院を変えてみることにしました。

他の病院なら治るだろう、と安易に考えていたのです。

 

回復への光と更なる失望

次にいった病院では、薬物医療と同時に栄養指導がなされる病院でした。

 

うつ病の原因となる「脳に必要な成分の欠如」「食事で補う」ことによって、症状を改善しようという方針だったのです。

医師と管理栄養士が「二人三脚」で診察してくれる病院でした。

 

それが効果を発揮したのか、症状が少し改善してきて、少し希望が見え始めてきたのです。

ところが医師が病気になり、その病院は閉院されてしまったのでした。

 

そこからは、病院を転々と移り歩くようになりました。

 

どこも、基本的に初診30分二回目以降は10分の診察同じでした。

変わりがなければ薬もそのまま、悪化すれば薬は増えるというベルトコンベアーの上にいるような気分で通っていたのです。

 

私の薬は増える一方なのに、症状の改善を実感できることはありませんでした。

 

そのため、うつ病は一生治らず、私はもう廃人同様で、自分の人生は終わったと諦めるようになったのです。

 

社会復帰と退職の繰り返し

それでも、薬を飲めば少しは動けるようになり、私は生活のために社会復帰を考えるようになりました。

 

私自身、自分がうつ病になるまでは、世間一般でよく聞く「心の風邪」程度の知識しかありませんでした。

なので、周囲の人の理解が得られないのは仕方がないと思います。

 

まして私には「外見から病気であるようにみえないように装う変なプライド」がありました。

 

そのため、職場で普通に仕事を割り振られ、無理をして働きすぎて体調を崩して退職を繰り返す、という、先の見えない暗闇の中を彷徨う日々を過ごしていたのです。

 

最後の就職

最後に就職した会社の給料は、大学卒業後の初任給よりも低い、手取り12万円まで落ちていました。

 

一体何のために生きているのだろう?、何度もそう思い、気が付くと10年近くがたっていました。

 

第二の人生の幕開け

這い上がるきっかけとなった一言

そんなある日、私がとても尊敬する、有名企業の広告デザインなども手掛けるデザイナーが私に放った一言が、私の人生にかすかな光を当てたのです。

 

本当にやりたかったこと?

法律という仕事は稼ぐための消去法で選んだものであり、本当は物を作ったり、何かを形にする仕事がしたかったのです。

法律事務所勤務時代には、夜間、機械式腕時計の修理職人を育成する専門学校に通ったりしていました。

 

物を作る仕事ならできるのでは?

うつ病で脳は使い物にならなくなったけれど、手先が器用なところはかろうじて残っていました。

 

そこで、物を作る仕事に携わることはできないかと模索し始めていた時に、そのデザイナーが私に諭したのです。

 

人生の転機となった一言…その1
人が持つものを羨むより、自分自身を見つめなおして自分だけの強みを見つけ、それを特化して磨けば必ず武器になる
人生の転機となった一言…その2
そうやって磨き上げた武器は自分だけのものになる

 

その二つの重い言葉が、無神論者である私なのに、神のお告げのように聞こえました。

そこで、私に残る強みとは何か、真剣に考え始めたのです。

 

【私にできること】一人苦しんでいる人の100%味方になる!

リーガルカウンセラー・20年以上人の悩みに寄り添い、ともに戦ってきたこと

考えた末に思いついたのが、法律事務所時代と法務時代共通して行っていた「人の悩みを聞くこと」でした。

 

  1. 誰に相談して良いか分からず迷い苦しんでいる人々の話を聞き
  2. 一緒に整理をし
  3. 進むべき道が決まったらその道を進む

その手助けを20年以上していたのです。

 

法務としては純粋な業務とはいえませんでしたが、社内の人から相談を受けることがよくありました。

 

例えば…

  • 配偶者の浮気が発覚し、自分にも気持ちがないから離婚をしたいけれど、子供の事があるから迷っている
  • 結婚相手や恋人から暴力や言葉のDVやモラハラをうけているのだけれど、経済力がなく逃げ場もなくどうしたら良いかわからない
  • 自分もしくは身内が多重債務になってしまい、お金の心配が頭から離れない
  • 子供が学校でいじめにあって不登校になってしまい、途方に暮れている
  • 恋愛相手が既婚者で、不倫はいけないことだと分かりつつも、別れることができない
  • 恋人の事ばかり考え、四六時中連絡をしたりして、恋愛依存になっているがやめられない
  • 40歳近くになっても、母親と毎晩一緒にお風呂に入り、その日の報告や恋バナなどをしていて、友人や恋人といる時よりも気軽でいいのだけれど、これはもしかして共依存
  • 毒親から子供の頃虐待をうけた記憶が忘れられず、今も苦しい
  • アダルトチルドレンだったため、その連鎖から、自分も子供に虐待をしてしまい、やめたいけれどやめられない

など…

 

誰に相談したらいいかわからない

相談に来る人達は、私が法律に詳しいからというよりも、誰に話していいのか分からない、という感じでした。

ランチタイムや残業時間などにふらっと来ては、色々な悩みや相談を受けるようなことが、多々あったのです。

 

私なりの相談相手のなり方

私は弁護士ではないので、法律的な回答をすると非弁活動になり弁護士法違反となってしまいます。

なのであくまでも、相談者がまずは自分の気持ちを整理し、何をしたいと思っているのかを気づく手伝いをしていたのです。

 

相談者が来たときは

  1. まずは相手の話をじっくりと聞いて
  2. 相手が混乱して整理がつかないことは一緒のペースで考え
  3. 自分のしたいことが見つけた後、助言を求められたら
  4. 初めてその希望をかなえるためにはどのような手段が考えられるかを助言し
  5. 必要に応じて信頼できる専門家を紹介する

そんな形で相談にのることが、法務というより私個人の業務の一部でもあったのです。

 

リーガルカウンセラーとは?

海外では法務を「Legal counselor(リーガルカウンセラー)」と呼びます。

確かに、法律を手段としたカウンセラーのようなものだ、と当時感じたことを思い出しました。

 

それなら、その時の経験を生かすことは出来ないか?と思い、心理カウンセラーへの道を模索し始めました。

 

既存の心理カウンセラーへの不信

私はうつ病になってから、勧められた何人かの心理カウンセラーの方とお話をしました。

 

でも、私には満たされるとか、癒されるとか、問題解決の糸口がつかめる、といった感覚を感じられずにいたのです。

そのため、正直に言うと、心理カウンセラーに対して、ある種の不信感すら抱いていました。

 

そのため、ただ当たり障りのない話をするだけで終わり、私の病状には良い影響を与えることはなかったのです。

 

孤独に悩む人と「一緒に戦うカウンセリング」で「唯一無二の道先案内人」

自分が求めるカウンセラーを目指す道のり

私の求めるカウンセラーとは、

  1. まずはじっくりと話を聞いてくれること
  2. そして話したいだけ話したら、とっちらかった心と頭の中の整理を手伝ってくれること
  3. そして進むべき道を一緒に探してくれること
  4. 私が選んだ道に進むための手助けをしてくれること

そんな人を求めていました。

 

ただ話を聞いてもらうだけで満足する人もいるでしょう。

逆にそれだけでは足りない人もいるでしょう。

私はその両方に対応できるカウンセラーになりたいと思うようになりました。

 

女性の数々の悩みと生きにくさ

特に現代において、女性が抱える悩みは数えきれません

 

  • 会社では中途半端に仕事を任されて、男性と同じ速度で昇進できるわけではないのに、責任は重かったり。
  • 家事や子育てはワンオペで、自分も働いているのに育児や家事は一人でこなさなくてはならなかったり。
  • 結婚や出産に対して、現代社会では助けを求められず、踏み出せずに孤独であったり。

 

そんな女性達が、パートナーや恋人に話を聞いて欲しくても、相手にその余裕がなかったり、話しにくいことだったりして、誰にも話せず一人で苦しんでいる女性が多く、女性にとって、なんと生きにくい世の中なのでしょうか。

 

気づいた自分の使命とは?

  • 女性が生きにくい現代で「一緒に戦うカウンセラー」として
  • クライアント様が専門家を必要とするなら、各分野の女性専門家をご紹介
  • ノンストップで解決へ導く「唯一無二の道先案内人」になる

 

一人で戦うより、二人や三人で戦う方が、きっと心強いし、結果への近道にもなるでしょう。

そして私は、カウンセラーとして、一人でも多くの女性を「生きづらさ、悩み、孤独から救いたい」、心底そう願っています。

 

心理療法が人生を変えた…心の「悪循環」を断ち切り「善循環」へ導くメソッド確立

他人軸から自分軸への生き方の変換

私は、心理学については、大学の必修科目で少しかじったことがある程度でした。

そこで、本格的にカウンセラーになるために学んだのです。

 

そのうち、私があれほど出世に拘っていた理由恋愛依存など、人生に感じていた生きにくさの理由を、客観的に見ることが出来るようになりました。

 

私は「他人から評価でしか自分の存在価値を認めることが出来なかった」のです。

他人からの評価として分かりやすかったのが、出世と年俸の上昇だったという訳です。

 

私は、自分自身を安定させることができず、しっかりとした土台がないため真の自信も持てず、人の気持ちもまっすぐ受け止められず、本当にやりたいことを行動として起こすことができなかったのだということも、勉強を経て分かるようになりました。

 

心の悪循環を断ち切り善循環へ

うつ病になるまで、心の悪循環延々とループしていたということも、気付くことが出来ました。

 

更に、私は自分で自分を母性によって安心させることができるようになり、父性によってやりたいことへのチャレンジを促すことができ、失敗を恐れることもなくなりました。

 

大切なのは結果よりもそのプロセスにあったのです。

 

長年の呪縛からの解放

私は心理療法を自分に利用することが出来るようになり、人生観が大きく変化しました。

 

長年の他人からの評価でしか自分を評価できない「他人軸の人生」から、

 

自分で自分を癒し、そして自分のしたいことを行動として起こし、仮に失敗してもそれを癒して再度チャレンジできる「自分軸への人生」へ、シフトすることが出来るようになったのです。

 

心理療法が、私の心を悪循環から善循環へと導いてくれたということです。

 

それは、私を長年の呪縛から解放してくれて、私に初めて穏やかな気分の日々を与えてくれることに繋がったのです。

 

二つの財産

心理療法を学ぶ中で、私には大切な財産があることにも、気付くことができました。

 

私は様々な厳しい局面に直面してきましたが、それでもこうして生きてこられたのも、大きな二つの財産があったからだったのです。

 

パートナーと友人達

何より長年にわたり陰ひなたなく絶えず一緒にいてくれるパートナーは、どん底の私を支え、助け、笑いあい、血の繋がった家族以上に家族といえる存在です。

 

また学生時代共通して言えることは、友人達や恋人達との出会い大きな支えになってくれました。

特に大学時代の友人達は、出会った当時から今までの長い間、いつも私を暖かく包み見守ってくれています。

 

歌姫 中森明菜さん

もう一人、歌手の中森明菜さんの存在は、私にとって生きる意味ですらあります。

 

彼女が16歳で、1982年5月1日に「スローモーション」という曲でデビューした時、私は13歳でした。

 

一人夜を彷徨っている時も、うつ病になり暗闇の中に突き落とされていた間も、常に彼女の存在と歌に救われ続けてきました。

 

二つのご縁

これらは、私にとってまさに「プライスレスな財産」で、人生で変わらず誇れるものだと言えるのです。

 

「助けを求める」ことで人生は一変!

あなたは「助けて」と言えていますか?

私は幸い、人生の最も辛い時期に「助けて欲しい」と助けを求めることが出来たからこそ、今もこうして生き延びてこられたと思っています。

 

明菜さんの歌う曲にも、心が「助けて欲しい」と共鳴したから、こうして新たな人生を歩むことができているのです。

 

もし言えていなかったら?

もし、この「助けて」が言えなかったならば、自死はしないとしても、心は生きているとはいえず、ただ無駄に時が流れて朽ち果てるのを待つだけの日々となったことでしょう。

 

今、これを読んで下さっているあなたに、

「助けて」を言える方がもし誰もいらっしゃらない

のなら、私にそれをゆだねてみませんか?

 

「助けて」と言うのは、とても勇気のいることですが、まずは出口への一歩となるでしょう。

 

その勇気を出して一歩を踏み出そうとしているからあなたはきっとこのメッセージを読まれているのだと思います。

 

この世界の将来への私の熱い想い

明日のこの世界は?

人が二人以上いる限り、争いや問題、悩みや苦しみがなくなる日はこないでしょう。

 

なぜなら、一人一人が違う人格を持ち、違う考えを持ち、違う文化や習慣を持ち、違う生き方をしているからです。

 

それでも、人には「言葉」があります。

「心」もあります。

 

その二つをもって、話し合い、分かり合おうと歩み寄る努力をすることが可能なはずです。

 

綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、でも、人に与えられた共存への道がそこにあるのではないでしょうか。

 

私のこれからの願いと生きる意味

私は誰にも悩みをいえず、助けを求めることができない女性たち「唯一無二の道先案内人」となり、そして「ともに戦うカウンセラー」として、あなたとともに暗闇の奥底にある小さな光を、少しでも大きな光にする手助けをしたいと願っています。

 

そんな積み重ねの先に、人類がいつの日か、戦争を、核兵器を、差別を、暴力を、いさかいをせずに、共に生きる世の中があると信じて小さな、でも確実な一歩を歩んでいきたいと思っています。

 

法律の世界「戦いの日々」でした。

今度はカウンセラーとして、クライアント様に寄り添い、ともに戦いながら生きていくのです。